過去を解き放つ⑩自分を許して愛することと他人を許して愛すること⑩お互いの主義主張を無理矢理調和させない

今日は僕とネパールカレーとの出会いを書きます。

僕が蒲田にひっそりと佇むネパールカレー屋さんを見付けたのはもう6年は経つでしょうか…

ある日僕はとても疲れていたんですね。だから鰻を食べたくて蒲田で鰻屋さんを探していたんですよ。いつも駅近で鰻を焼いているお弁当屋さんみたいなところが閉まっていたからです。

「うなぎ…うなぎ…」と蒲田の商店街をウロウロしていると、たくさんの外国人やピンクなお店のお兄さんに話し掛けられます。その度に「鰻屋さんを探しているんだ」と聞いていたのですが、外国人はともかく、ピンクなお兄さん方も知らないんですよね。

途方に暮れてふと空を見上げる途中に、「本格ネパールカレー」の看板が目に入ったんですね。ネパールカレーって食べたことないなと、辛いのが苦手な僕は、何を血迷ったのかそのお店に入ろうと思ったんですね。

フラフラとお店へ近づくと、外国人のお姉さんが「イチマンエンデキモチヨクナレルヨ」と片言の日本語でお誘いしてくださるのですが、僕は意に介さず「ここ美味しいの?」と看板を指差して尋ねました。

「ウーンワカンナイ。」
「どうやって入るの?」

入り口を見ると、行灯はあるのですが、階段は無い。

「コノエレベーターノニカイ?」

こっちが聞いているのになぜか疑問系で返されました。しかしそこは日本男子です。

「ありがとう」

とスマートにボロいエレベーターのボタンを押すと、ドアが開いたんですね。

もう後には引けません。エレベーターでしか行けないような怪しい店です。扉が開いたらいきなり数人のネパール人に囲まれるかも知れません。しかし僕は秘密の部屋に入るようなワクワク感が勝っていました。多分、ハリウッド映画などで一番先にやられるタイプです。

ヴヴゥ~ンと壊れそうな音を出しながら二階に上がり、扉が開くといきなりレジがありました。

中に入ると「イラシャイマセーェ」と、一生懸命なスマイルを浮かべるネパール人らしき人。

あと4~5人のネパール人がたむろってました。

壁にはエベレストの絵と、多分ネパールのニューミュージックがチカチカと大きなテレビに映し出されています。

じろじろと見てくる客っぽいネパール人と、ハニカミながら笑顔をくれるネパール人店員。

完全にアウェイ!

そう思ったのですが、まぁいきなり拐われたりはしないだろうと、端っこのイスに座りました。

「辛くないカレー、ありますか?」
「ハイ?」

ネパール人の笑顔が少し強張ります。

そうです。僕は片言っぽく“辛くないカレー”を注文したんです。カレー屋さんで辛くないカレーを求める僕の暴挙を許してください。なんだったらちょっとしたクレーマーに見えたかも知れません。

「辛くないカレー、ありますか?」メニューでチキンカレーを指差しながら僕はまた聞きました。
「チキンカレー?」
「ノー!辛くないカレー」
「カラクナイカレーワカリマセン。ショショオマチクダサイ」

心なしか汗が増えたネパール人店員はそう言うと厨房に入っていき、シェフみたいな人を呼んできました。そりゃ困りますよね。ごめんなさい。

「ゴチュモンハ?」
「辛くないカレー、アリマスカ?」
「カラクナイカレー?」
「あー、うーんと、辛さマイルドなカレー」
「オーケッ!マイルド。チキン?」
「辛くないカレー、マイルドなチキンで」
「カラサ、エラベル、マイルド、オーケッ」

大丈夫そうだ。
他のネパール人はチラチラこっちを見ていたけど、基本無関心そう。というか、見てくるから僕も見ていたら、ネパールおじさんがニコッてしてくれた。

なんだかその笑顔にコロッと僕は騙されました。ネパール人いい人ぽい。

だいたいカレー屋さんで辛くないカレーを注文してくるちょっとしたクレーマーぽい行動をしてしまったと気付いた僕は、ちょっと気負い過ぎたのを反省しました。そしてそのネパールおじさんにごめんねの意味も込めて、ニコッと笑顔を返しました。

その後、そんなに待たずにネパールカレーが到着。銀のカップに入ったカレーとライスに別れている。

どれどれと口を付けると…辛くない!なのにウマイ!

スパイスってピリリ!ってイメージかも知れませんが全然そんなことがなくて、複雑な旨味が口の中でハーモニーを奏でていきます。なんだか一口ごとに身体が元気が目覚める感じです。その深みのある味は、なぜかしつこくなくて、カレーにありがちな旨い!辛い!もたれる!の三拍子の“旨い!”しかない感じでした。僕の前世はネパール人かも知れません。ちなみにライスが足りなくなってお代わりをしました。

大満足のままお会計です。元々鰻を食べようと考えていた僕は2,000円くらい取られてもいーなーと思ってたところ850円!安い!安過ぎる!

あんまり安いのでお腹壊すかなー?と思ったら、壊すどころか消化するごとに身体が元気になりました。ネパールカレーはなかなかのパワーフードでした。

それから蒲田に行ったら通う日々が続きました。けれども行く度に働いている人が違うんですね。なんだかビザ的な闇を感じますが気にしたら負けです。

営業時間がフリーダム過ぎて開いていないこともしばしばです。

一度、押せ押せネパール人店員が「ハイタツ(配達)シテマース!」とアピールしてきたので、次の時に電話を掛けたら不通でした。仕方ないから行ったら開いていました。何も言わないで食べて帰りました。なぜならばあの押せ押せネパールおじさんはもう居なかったからです。

そんな閉鎖された、異国情緒が溢れた、ユルいネパールカレー屋さんが僕は大好きだという話です。

さて、“お互いの主義主張を無理矢理調和させない”話でしたね。このネパールカレー屋さんを例にお話しします。

例えばカレーが食べたいとします。でもお店に行ったら営業時間なのに開いていないとした時、「営業時間なのに開いてねーじゃん!」というのは普通の反応ですが、そこに“怒り”を乗せるか“笑い”に変えるかで心の状態が変わりますよね。

“普通”定休日以外の営業時間に開いていないことは日本では通常あり得ないと思います。だけどその“普通”は誰が決めたのでしょうか?

それは“日本人”の勤勉さが定着した結果なんですよね。電車も時間通りに来るのは世界的にも珍しいみたいです。だけども僕たちにとっては“当たり前”なんですね。

ご存知の通り、外国では文化や風習が違います。バスにあり得ないくらい人が乗ったりしています。まるでサーカスです。向こうでは“当たり前”ですが日本では注意されますよね。止まっているバスの屋根に乗っても怒られると思う。

そんな訳で、世の中に“当たり前”は無いんですよね。なのに僕たちは“当たり前”を求める。

その“当たり前”は自分の“当たり前”であって、他人には当てはまらないという事実があります。

“人のものを盗ってはいけません”は多くの人にとっては“当たり前”ですが、「欲しければ奪え」が当たり前な人もいるかも知れません。

そういう方とお互いの主張を無理に調和させようとするから歪になるのだと僕は思います。

例えば極端な例ですが、「月火水曜日は奪わない日、木金土曜日は奪ってもいい日」と折衷案を出しても良くはないですよね。

“お互いの主義主張を無理矢理調和させない”とはそういうことです。

これには白黒思考が関係していると思います。

正義感の強い人ほど白は白!黒は黒!が強く、それがエゴになって現れてしまいます。自分の正義を社会の正義に当てはめて、自己都合で考えてしまうんですね。

相手には相手の正義があります。例えば立ち小便は軽犯罪法違反です。しかし、小さな子がどうしても我慢出来なくて立ち小便をしても、多分逮捕はされないと思います。ダメはダメだけど、仕方ないなぁって。

近くに親がいたなら、眉をひそめられるかも知れません。この“立ち小便はダメ”の真意は『公衆衛生を保つ為』であり『疫病予防』です。それを言えば、犬の散歩でマーキングさせる方がよほど良くありませんよね。けれども犬にはそれが出来ません。じゃあ犬は良くて人間はダメなのか?

そう理論だけグルグル交差しても始まらないんですよね。

だから、相互理解が必要になる。

“これはこうした方が多分みんないいと思うけど、こういうこともあるよね。”というお互いの理解です。

それは真意を見つめ直して、遠くから始める。

先程の“奪う人”に関しては、それをこちらの主張で突っぱねるのではなくて、“なぜ奪うのか?”という相手の話しから始める。そこで教えを説くのではなくて、「欲しかったんだね」と心情の理解から始める。

そして“欲しかったもの
”に対してお互いの理解を深める。こちらとしては欲しかったならお金を貯めて買うという方法を示す。けれどもそれが理解できない。すぐ欲しい。と相手は思ってしまう。

そうしたらそこの思考から離れる。

“欲しい”と思う思考の出発点を話し合う。

“なんでそう思うようになったのか?”

きっと、おそらくですが、その根源には“満たされない思い”があったんだと思います。

その“満たされない思い”とは“自己肯定感”じゃないかなぁと僕は思うんですね。

『自分の存在(心や思考)にNOを突き付けられた』

それが自己否定に繋がる。

だから、そういう時はお互いの妥協点を白黒付けないで決めるといいと思う。いい意味であやふやにする。

例えば、『奪う・奪わない』という目先の話ではなくて、『どうしたらその行為をしなくて済むか?』という根源の話に代えて、その為には自己否定が辛かったか辛くなかったか聞いて、辛くなかったなら、こういう方法もあるよ。という話をする。それを『決める(こうしなければならない)』ではなくて、やってみてダメならまた一緒に考えるようにしてみる。とか。

“寄り添う”ということが大切なのかも知れないなぁと今僕は思います。

問題から離れた、思考が固まっていないところの考えを、なんとなく融和するところから始める。とかね。

あとは、自分の気持ちも話すこととか。

『奪われたら僕だったら悲しいな』という心の話をする。そうしたら「また分かってくれない!」とか「また否定する!」って言われちゃうかも知れないけど、自分の気持ちを伝えるって大切なことだと思う。

だって悲しいのは悲しいんだもん。倫理的な行動を示唆するんじゃなくて、心を伝える。これをしないと「冷たい」と思われる。そしてそれを否定される。

どちらにしても否定されるんだから仕方ないんだと思う。

だったら、“思考”を伝えるより“心”を伝えた方が、僕はいいと思うんだよね。

否定、否定、否定の嵐に立ち向かうならば、ね。

そういう状態になる時もあるからさ。

さっきの件で言うならさ、奪う行為の根源はおまえのせいだ!って言われたりしちゃう。だけどそれを“そうじゃないでしょ?”って言っても水掛け論になっちゃうからね。それに対して多くの人は“怒り”の感情を出したり無視したりする人もいるんだと思うんだよね。そしたら相手は自傷行為に走ったりね。まぁどうしろと思っちゃったり僕もしましたが、そこは相手の心を認めて「あなたは今そう思うんだね」と心を受け止めることから始めるといいと思うんだよね。

それは本当に自分が傷付く会話の繰り返しなんだよね。僕はそうだった。相手は離してくれないしね。目を離しただけですごい顔で睨まれたりする。席を立とうとしても「人の話も聞かない」って怒鳴られたりね。そして“無視された”というDV案件になったりする。また、色々な話を考えてしてみても「私はバカだから分からない」とか「あなたは口が上手いから」とか、それが「バカにしてるのかッ!」って怒鳴られたりとかね。そもそも会話が通じないんだよね。分かる。経験したから。その全ての原因が僕になる。ホント、“自分が死んだ方が相手は幸せなのかもな”って何度も何度も思いました。その度に悲しくなってね。命の尊厳がコテンパンに傷付けられたように感じて、“健常者”はそれを口に出すことなど許されないという圧力を感じ続けた。でも、そう感じる僕の心にも問題があったんだけどね。ただ、子供たちには同じ思いはさせたくないと思うんだよね。まぁそれは僕のエゴです。

だからと言っても安易に離れられないよね。僕の場合は離れたら自殺するかも知れないって医者に言われたも同然だったからね。

例えば仕事のストレスが原因で調子が悪いとした時、今すぐ仕事を辞めて、台湾で暮らす。とかは現実難しいと思うからさ。出来る人ならいいとは思うけど、出来ない人も多いと思う。

出来るなら、離れるという選択も有りなんだけどね。それが出来ない人もいる。だから、そういう公的機関が僕は欲しいんだ。

適切な距離を置いて、お互いの心や思考の間を取る機関が。

僕は欲しかった。

だから、きっと誰かも欲しいんじゃないかなぁって思ってさ!

そんな感じ!

僕がここに綴る言葉は、今まさに嵐の最中にいる人にはそれほど役に立たないかも知れない。

でも、何か一つでも光明が見出だせたらいいなって思うんだ。

僕はそれがずっと欲しかったからさ。

だから、何の役にも立たないかも知れない。誰が見ているかわからないけど、ただ僕の気持ちを垂れ流すだけです。

よくさ、本なんか見てるとけっこうみんな言い切るじゃん。「これはこうだ」とかさ、自己啓発書なんか特にさ。

あれさ、僕はあまり好きじゃないんだよね。“あなたには良かったかも知れないけど、読んでも出来ない人だっているじゃんか”って思っちゃう。

だからさ、余計僕の考えは万能薬ではないと思うんだよね。

だけどさ、自分の言葉が誰かたった一人の役に立てたなら、上等な人生じゃねーの!とも思うんだよね。

だからこれを書いています。

自分のこと否定しちゃう人は、あんまり自分のこと責めないようにしてね!

じゃあまたね!

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